【主な内容】
岩野原遺跡は深沢にあった遺跡(第2図)で、
高速道路の土砂採集のため現在まったく残って
いません。皆さんの中にはあの付近の当時の様子
を覚えておられる方も多いのではないでしょう
か。遺跡がなくなる代わりに詳細な調査が行われ
「報告書」という形になって記録されたわけです。
調査は昭和53年から昭和55年にかけて実施され、
県内初の大規模発掘調査ということで大変話題
になりました。この調査の応援に関東の学生も大
勢泊り込みでやってきました。当時1年生だった私もその一人でした。
当時の私は、本当に何も知らない状態で、多く の住居跡が発見されていることや土器捨て場に は憧れの火焔型土器を始めとする土器がごろご ろしている姿に単純に感激した記憶があります。
現場でまず先輩から教わったことは、岩野原遺 跡には「中期の住居跡(約4500年前)がまとま っている箇所」と「後期の住居跡(約3500年前) がまとまっている箇所」とがあるということでし た。そのときは「本当かな」と思ったものですが、 事実そうだったのです。つまり、岩野原遺跡の大 きな特徴は、中期の集落と後期の集落が隣り合わ せに営まれたことです。
今回は、火焔型土器の時期、つまり中期の集落 にしぼって見てみましょう。
第3図をごらんください。これが岩野原遺跡の 中期集落の全体の姿を表したものです(後期の集 落はこのすぐ西側にありました)。この岩野原遺 跡の中期の村はおおよそ4500年前から4000年 ほど前までのおよそ500年間続いた村だと考えら れています。中期中頃から中期末頃にかけての村 です。
ではまず第3図上半分を見てください。線で描 かれた円や四角がありますが、これが住居の跡です。その中心にある「・」は炉の印です。こ の住居の分布を目で迫っていきますと、およそア ルファベットの「U」の字に並んでいるのが分か ると思います。重なっているものがかなりありま すので、これらすべての住居跡が同時期にあった のではないことも分かります。その内側に◎や口 の印が並んでいます。◎は貯蔵用のアナグラ、口 はお墓だと思われます。
こうして住居とアナグラとお墓ある範囲、すな わちアミがかかった部分を見ますと、やはり「U」 の字の形になっていて、その中央には遺構の少な い部分、「中央広場」と呼ばれている空間がある ことが分かります。
こうして見てくると、このシリーズ(1)の十日町 市笹山遺跡、(2)の塩沢町五丁歩遺跡と共通する点 があることに気づきます。まず、1)「中央広場」があ ること。ただ単に遺構が偶然作られなかっただけかも知れま せんが、そういう部分がこの岩野原の集落にも認められるこ と。2)次に、「中央広場」の周りを多数の遺構が取り囲む ということ、3)その取り囲み方は、最初に貯蔵用のアナグラ (フラスコ状土坑)とお墓が取り巻き、さらにその周りを住居 が取り巻く、という2重の「同心円」の構成が見られること、 が挙げられます。
まだたった3つの集落を見ただけなので、「まとめ」を考 えるのは早すぎるのですが、どうも縄文時代の中期くらいの 村には「一定のパターン」がある気がしてきませんか?ぜひ、 シリーズ(1)と(2)と今回の図を並べて検討してみてください。
しかし、違う点もあります。先ほど見た「U」 の字の西側に接して「第1土器捨て場」があるこ とです。これは今までみた遺跡にはありませんで した。しかし、土器捨て場自体はあまり珍しいも のではありません。特に土器が集中的に出土しま すが、ほかにもゴミ一般も捨てたものでしょう。 それにしても遺跡からはまったく多くの土器が 出土し、よく作ったものだとあきれるくらいです。 もしかすると、新しく土器を作るためにわざと壊 したのかも知れません。そして違う点のもう一つ は、土器捨て場のさらに西側に住居とアナグラの 集まる部分がもう一列あることです。これに関し ては、現在の石坂の頭ではどう解釈してよいか分 からず、困っています。どなたかよいお知恵を貸 してくださいませんでしょうか。(つづく)