寄稿
縄文と遭遇できて
先日の「大地の会・春の半日巡検」後の酒席の 中で、縄文尺についての話題が上り、様々な尺 度が飛び出し、私も疑問が残り後日、学芸員の 方より資料(「柱のエコロジー」日本放送出版 協会1993)を頂いて舞いりまして解った事は、 「人体尺」を基にした「肘」(肘から中指の先 まで)の長さ35cmを縄文尺の基としていた らしいと。例の縄文ブームの先駆者となった、 あの青森の三内丸山遺跡の巨大木柱遺構での 6本柱の柱穴の配置の等間隔も、柱の高さもほ ぼ縄文尺(35cm)の倍数であるらしい。
ところで、その6本柱は、6本(偶数)ではな くて、3本(奇数)+3本(奇数)で6本であると おつしゃる人物は彼の県歴史博物館小林達 雄館長(国学院大学教授)でございます。その小 林先生と太平洋を隔てて、あのトーテンポール を建てたカナダインディアンの村を訪ねるの にご一緒させて頂いたのは2年前の事。村はバ ンクーバー島の北方北緯50度に位置し太平洋 に剣のように突出した岬にある。左手は雄大な 太平洋右手には懐深い入り江となる内海の狭 間、小さな漁港には蟹籠が堆く積まれて、月星 夜の中、鴎や鳥が静かに夜明けを待つ。潮の満 干が激しく、さながら静かな中州の針葉樹林は 原始の趣。トーテンポールの建てられている事 が、遠目にもぼんやりと浮かび何やら精霊を感 じ取られずにはいられない。私は暫し棒立ちと なり、これが金縛り状態と言うのかと知る一時 ・・・
帰国後、歴博の『縄文のプロローグ』のレリ ーフを完結するに生かせた事は、間違いのない ところ。ほの暗い館内の照明では解り難いが、 ベンガラ色など10色ほど使って、大小の箒や ハケなどで汗だくの仕事は師走まで至る。完成 時は自画自賛の喜びであった。
このレリーフを見に来られ舞台美術の仕事 を下された方が『土取利行・縄文鼓野外コンサ ート』のご本人である。私は縄文の3本のトー テンポール(約5m×2本・3m×1本)を始め、 前夜祭歴博オープニングセレモニーとしての コンサート舞台その物を造る羽目と相成った。 前夜のリハーサルは雨降りで心配されたが、本 番は流星が飛び、空を見据えた奏者。土取氏は 終了後、「ボクはあの時、月星と語っている、 時には呪術師のようなシャーマン状態に陥る」 と・・・。余談ではあるが、翌日の後片付けは39 度超の猛暑となり前後3日間で5kg減量できた。
2000年8月1日いよいよ歴博のオープン、幸 運にも同時に開催された企画展「ジョモネス ク・ジャパン」に私の絵画「縄文蘇牛」120号 を出品させて頂いた。制作の日々、あの渦巻き やS字模様を見れば見るほど、パワーが涌いて 来る、そこから縄文人のデザイン的センスや文 化力を強く感じる。
そんな折、酒飲み話から興じて、長岡にスペ
インの建築家、故アントニオ・ガウディー氏の
設計した、バルセロナのサクラダ・ファミリア
大聖堂の様な百年を経ても完成しない建造物
としてのモニュメントを造れないものかと
・・・。そんな情熱はめらめらと焔のように周囲
を刺激。遂には長岡ロータリークラブ様が5O
周年記念事業の中に組み入れて見ましょうと
いう事になり、話はとんとん抽子に半年後には、
台座を含め3.4mのレプリカを建立できた。
原型造りに40日間かかり、300kg近い油土 を使い、縄文人に少しでも近づくための模様を 模索しはじめた。何度となく下絵をやり直し、 将来50m,100mにもなるかという夢を繋ぐオ ブジェに相応しいスケール感に気を配って完 成。除幕式の当日は素晴らしい日本晴れ、天辺 に据えたミス馬高の土偶像が天に吸い込まれ て行くような錯覚。何処となく宇宙人の様にも 見えたり、胸部の下に3本指の跡のようなもの も読み取れ、増々ETの仲間かと言いたくなる。 私もこの縄文台地、八石山系、枡形山の麓に 生まれ、五合目辺りに田畑があり、子供心にリ ヤカーで行くには遠い処と思いつつ父母を手 伝った。今日、農を捨てたうしろめたさが無い とは言い切れ無い。冬の炉端で手造りの縄を綯 った頃が懐かしくさえある。