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シリーズ 火焔型土器と新潟の遺跡
    (4) 原遺跡 ペンタラボ 石坂圭介

原遺跡調査の概要

今回は、塩沢町の原遺跡を紹介します。
 今から10年度ほど前、バブル末期に塩沢町内の北陸自動車道脇にリゾートマンションの建設計画が持ち上がりました。その敷地内に所在した原遺跡は、その建設によって損壊されることになり、それに先駆けて原遺跡の発掘調査が実施されることになりました。私、石坂もこの調査に主任調査 員として参加しました。
 マンション建設後、バブルがはじけてしまい、売り上げは思うように伸びず、その結果、報告書の刊行のための様々な費用が出なくなってしまい ました。そこで、現在津南町教育委員会にいらっしゃる佐藤雅一調査担当が先頭になり、ボランティアで整理と報告書の執筆をし、なんとか各方面の理解を得て報告書の刊行にこぎつけたという、苦労した分思い出の深い遺跡です。もちろんこの 遺跡からも美しい火焔型土器が出土しています(第1図)。

遺跡の位置と環境

北陸自動車道石打インターチェンジより湯沢方面へ2kmほど行った所の左手の見上げたあたりにそのマンションが建っております。遺跡はその下にあったわけで、当時は緩い斜面地でした。近くには魚野川が流れ、背後には飯士山がそびえるという自然環境に恵まれた立地です。またすぐ近くには以前紹介した五丁歩遺跡がありました。

縄文集落の共通点の復習

前回まで、火焔型土器の時代の集落を3つほど見てきました。五丁歩遺跡、笹山遺跡、岩の原遺跡と見てきたわけですが、これら縄文時代中期のムラにはどうもいくつかの共通点がありました。それをもう一度復習してみますと、1)ムラの真ん中に「広場」があること。そういう部分が3つの集落にも共通して認められ、その広場の周りを住居跡、穴蔵跡などの遺構がたくさん取り囲むということ(環状集落)、2)その取り囲み方は、最初に貯蔵用の穴蔵とお墓が取り巻き、さらにその周りを住居が取り巻くこと(同心円状の構成)などが挙げられます。さて、原遺跡の場合はどうでしょうか。

原遺跡の遺跡全体図

原遺跡全体概略図

原遺跡の遺跡全体図を見てみましょう(第2図)。ごらんのように、完全な環状ではないものの、やはり「環状集落」であることが分かります。この調査範囲の左手が段階になっており、右手は飯士山の山頂側となります。
厳密には「環状」というよりは弧状というのでしょうか、でも、やはりある部分に「中央広場」があり、その周りに様々な施設が作られていることが見て取れます。その施設は一番内側には方形柱穴列(掘立柱の建物跡だと考えられます)が並び、さらにその外側に住居跡が並んでいるのが分かるかと思います。そして住居跡の周囲には配石遺構と呼ばれる墓碑、さらには穴蔵が分布していました。
繰り返しで申し訳ないのですが、どうやら原遺跡にも前回までの3遺跡と同様の特徴(環状集落・同心円状の構成)が見られるようです。

後期集落の復活

さて、原遺跡には他にも特徴があります。その一つは方形柱穴列と呼ばれる遺構の並び方にあり ます。皆さんも ●と線で結ばれたこの遺構の配置を観察して、何か規則性があることにお気づきにならないでしょうか?この線が中央広場を中心にして「放射状」に並んでいるように見えませんか?原遺跡ではこのように施設の一部がやはり中央広場の「中心」を強く意識して作ったに違いないという特徴があります。
 これはどういうことかと考えてみると、建物を建てるときの「向き」にも決まりがあったことを示しているのではないでしょうか?しかもそれが中心を向いていることからすると、スポーツのチームで言えばかなりチームワークのよいメンバーからなるチームのような気がします。
 当時のムラにはどのようなリーダーがいて、どのようにムラを収めていたかは不明ですが、結束力の高いムラ人だったと想像されます。
 しかし、(専門家の話にはいつもこの「しかし」がくっついていて、面倒くさいのですが)、方形柱穴列が重なっていることからも分かるとおり、これらの建物は何度も建て替えられたことを示しており、第2図の姿というのは一時のムラのあり方 を示しているのではなく何百年の姿を同時として見ていることになります。この辺が考古学の分かりにくいところです。それにしても、逆に言えば何百年もの間、中央広場とその中心が意識され、守られていたということ自体、強く当時のムラの特徴を現しているのかも知れませんね。(つづく)

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