総会記念講演報告
新潟平野の地層が語る縄文時代
新潟平野(越後平野)は江戸時代以降河川の掘削工事が行われてから、はじめて農地や人間の生活する空間が広がった。それまでは平野の大部分は排水の悪い湿地や湖の状況であった。現在も各河川に作られた排水機場がなければ、新潟市の多くは水没してしまう運命にある。
ところで、縄文時代の遺跡の多くは丘陵地や砂丘など地形が高い場所から発見されていた。しかし、土木工事などの低地の開発が進むにつれて、昔は湿地で人の生活など到底考えられなかった低地からも縄文時代の遺跡が発見されてきた。縄文時代に人が生活できるような陸地がどのように形成されたのであろうか。それを知るためには平野地下の地質情報を分析しなければならない。
今から70,000年前から10,000年前は最終氷期と呼ばれる氷河時代であった。特に18,000年前は平均気温が現在よりも7〜8度も低い最寒冷期であった。大陸には氷河が発達し海面は現在よりも100mも低かったとされている。したがって、当時の地表は河川によって浸食され各地に深い谷が形成された。その後、気候は温暖化し、氷河が溶けるとともに海水面が上昇し、谷には海が浸入し、地層が堆積した。このように最終氷期最寒冷期以降に堆積した地層を沖積層という。また、日本では約6,000年前頃に最も海水面が高く各地の平野の奥まで海が浸入した。この時期の海の浸入を縄文海進とよぶ。
沖積層は日本各地の平野に広く分布している。関東平野や濃尾平野がその代表である。新潟平野の沖積層は関東平野などのそれと比較して2つの点で大きな違いがある。
一つは沖積層の厚さが最大で160mもあり、関東平野の倍以上であるという点である。ただ、この特徴は新潟平野の南部だけであり、北部では60m程度で関東平野と大差がない。これは新潟平野南部が少なくとも数100万年以降、連続して沈んでいる(沈降している)ためである。
もう一つは約6,000年前ごろかの縄文海進の時期に、海が内陸の奥まで浸入していないことである。これは、平野の前面が砂州や砂丘によって閉じられ、内側に潟が形成され、海が容易に内陸まで浸入しなかったことによる。また、信濃川や阿賀野川からもたらされる大量の淡水によって海水が薄められたことも関係している。
平野地下の沖積層を調べるためにはボーリングでコアを採取することが必要である。コアを用いて地質の状況を細かく記載し、柱状図を作成し、これを連続させて断面図を描く。そして、地層がいつ堆積したかを火山灰や放射性炭素年代法で決定する。地層がどのような場所(海、湖、河川かなど)で堆積したかは有孔虫やケイソウなどの微化石を調べる。
味方排水機場遺跡は、味方村の地下19mの深度で排水機場掘削時に発見された縄文時代の遺跡である。遺跡周辺のボーリングコアの分析を行ったところ以下のことがわかった。
今から10,000〜6,000年前頃までは海が浸入して湾や潟が形成されていた。6,000年前から信濃川などから土砂が急激に供給され潟はおおむね埋没されてしまった。4,450年前になると泥炭が発達する湿地が広がり陸地も見られるようになった。このような陸地の出現が縄文人の生活面となったのであろう。その後現在まで、何度か海が浸入したり陸地になったりを繰り返した。したがって、人の生活面となった陸地が4,450年前以降ずっと存在したわけではない。また、縄文人の生活面が地表下19mに位置するのは、新潟平野が5,000年前以降も沈降しているためである。
青田遺跡は加治川村の日本海沿岸東北自動車道建設現場で発見された、縄文晩期と平安時代の遺跡である。遺跡は地表面から約2m下から発見された。青田遺跡周辺には江戸時代以前に旧紫雲寺潟(塩津潟)が存在した。
遺跡周辺のボーリングコアの分析を行ったところ以下のことがわかった。今から10,000〜7,000年前頃までは海が浸入していたが、7,000年前になると海岸部に砂州が発達し、内陸部は湖(少し塩分があるような湖)となった。約5,000年前頃になると湖は浅くなり、周辺の河川からの土砂の供給によって埋めたてられた。そして、人が生活できる陸地が形成された。しかし、平安時代(1,000年前)には再び湖となった。
新潟平野は10,000〜6,000年前の海面上昇(縄文海進)によって、海岸部に砂州が内陸部に潟湖ができた。その後、5,000年前頃には河川が運ぶ大量の土砂によって、潟湖が埋め立てられた。そして、縄文人が生活できる陸地ができた。しかし、その後は必ずしも現在まで陸地であったわけではなく、海の浸入があったり、湖となったり地域毎に環境が複雑に変化した。このような環境の変化に縄文時代以降の遺跡の立地が左右されているものとみられる。5,000年前以降の各地域の環境変化の状況とその原因はまだよくわかっていない。今後の十分な研究が必要である。