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地学講座報告

『縄文時代の幕開け』
      〜土器出現期から縄文時代早期までの変化〜
講師 津南町教育委員会  佐藤 雅一氏

縄文時代というのは

土器が初めて作られるようになった時代と言 えるかと思います。今日触れる縄文時代の開始 時期は、今からおよそ1万年前もしくは1万 2000年前と言われております。調度、この頃 は氷河時代が終わって現在の気侯にどんどん 近づいていく、そのような時期です。

津南町周辺は日本一の縄文時代草創期の遺跡密集エリア

私が勤務しております所では、特 に信濃川と清津川の合流点を中心としますエ リアに約49箇所の縄文時代草創期の遺跡が密 集しております。これは、まさしく日本で一番 の密集度です。これが何故このように密集する かということは、これから考えていかなくては ならない課題です。

津南町の河岸段丘面ごとに乗る縄文草創期の遺跡をカウント

ここで仮に草創期を第1期を「隆起線文土器以 前の時期」、第2期を「隆起線文土器の時期」、 第3期を「押圧縄文土器の時期」、第4期を「回 転縄文土器の時期」というふうに区分し、段丘 ごとにどのように乗ってくるかを調べました。 段丘に関しては、大割野T面から数えて谷上面 まで9面(高位からつまり段丘が出来た古い順 に谷上、米原I面、同U面、朴ノ木坂面、貝坂 面、正面面、大割野T面、U面)ある訳ですが、 今回は約8面に区分し、それぞれの段丘で見つ かった遺跡の数をカウントしました。

隆起線文土器の段階、大割野のI面に多数の遺跡が進出

隆起線文以前の時代(第1期)におきましては 大割野面には遺跡は乗らず、正面面に2ヵ所、 米原U面に1ヵ所遺跡が乗っております。次に、 第2期の隆起線文の段階、大割野のI面に非常 に多くの遺跡が進出してきまして、これが13 遺跡。第3期におきましても大割野のI面に8 ヵ所出現し、第4期になりますと津南地域にお きましてはほとんど足跡を探ることはできず、 1ヶ所確認されているに過ぎません。これをど のように解釈するかということでありますが。

川口町の荒屋遺跡の旧石器時代末から水辺環境へ進出

皆さんは川口町の荒屋遺跡をご存知かどう か分かりませんが、その時期の細石刃(さいせ きじん)石器の段階(第1期直前)ですね、こ れはシベリア、アラスカを含めて私達モンゴロ イドが拡散していく中で最大規模の拠点遺跡 です。この荒屋遺跡では、洪水層の中に3枚か ら4枚の細石刃を伴う包含層がございます。そ れをどう読み解くかというと、洪水が来て人が 住めなくなって、水が引いてまた乾いた時に来 てということを少なくとも3回から4回繰り 返している−という、何故か洪水に襲われやす い所にわざわざ人々が来ているわけです。そこ は、このように魚野川と信濃川の合流点の、私 は三角州だと理解しておりますが、このような 三角州のようなところにあえて出てくる。更に、 それと同様に若干新しい段階の大割野のT面 が離水する時期、最古の土器をもつ人達もあえ て河川氾濫原に出てくる。それは何故か?とい うことが大きな問題な訳です。

礫下床に産卵するため遡上してくる鮭、鱒

現在の信濃川の様子を見ていくと、新潟市か ら少なくとも越路までは泥の川底で、そこには フナとかナマズが棲む川と言えます。小千谷よ り上流では礫の河床が見られ、そういう所にサ ケやマスが何千何万と上ってきて産卵をする。 それを草創期の人々が仕留めるというような ことが言えるのではないか?川口の荒屋遺跡 で洪水にもかかわらず繰り返し人が住んだの も、津南町周辺の大割野面の自然堤防上に遺跡 が多くあるのも、サケ、マスの産卵場所を狙っ て河川のそばで人々が作業したためといえる のではないでしょうか。

そうやって川口や津南には多くの人々が住 みはじめ、やがてそこに定着していったのだと 思います。大型動物を追って移動性の高い生活 を送っていたのが、サケ・マスなど回帰性のあ る生物に適応することによって、一定の場所に 定着するようになるわけです。

落葉広葉樹林の恵

人々が定着した河川の背後には高位の段丘 や山々がありそこに育つ落葉広葉樹がありま した。その中におきましては、数多くのナッツ 類が存在します。東目本の落葉樹林帯では、ク ヌギやナラ、いわゆるドングリが数多くあり、 そのドングリの一部に関しては、アク抜きして ないと食べられません。しかし、加熱処理もし くは水さらし処理をすると食べられる非常に 有効なカロリー源になります。土器の出現は、 このようなドングリやトチの実のアク抜き処 理に使われたのではないでしょうか。

土器の出現による社会的効果準定住の意義

最古の土器が生まれ、一般化することによっ て、どのような社会的な効果が生まれたかにっ いては、土器を使って煮ることによって、ひと つは食品リストが増える。当然一箇所に留まっ ても、まかなえるだけの食材が増えるわけで、 より長期の滞在が可能になり、半定住的な生活 が営まれるようになった。そして、半年も一箇 所にいると、その間に近くの山を歩いたり、い わゆる自然にある生活資源を開発していくと いう行為がそこで生まれてくる訳です。

隆起線文土器
隆起線文土器
草創期の社会
家族制の原点老人階層の意義

地域資源の開発が重要な意味を持つように なると、よりそこに長く生活する人の方が生活 の知恵、知識として持ち、若者よりも老人階層 の方が生活の知恵を持っている知恵袋でとな ります。当然、開発したその領域を巡る争いも 起きる。その調停役等も含め、社会構造の中で、 実は老人階層が社会構造の頂点にありまして、 老人層、青年層、少年層、幼年層というピラミ ッドが恐らくあって、社会を築くのは老人層で あったという華本的な家族制の形がそこに整 ってくる。

しかし、現代社会をみると、その老人層を若 者が蹴飛ばしてそのピラミッドを壊してきた というようなことを、実は歴史から現在を見直 すということができる訳です。ですから、現代 社会、核家族の問題、家族の崩壊ということが 言われておりますが、実は遥か遠くの1万2000 年前の自然と共生し、一万年間続いた縄文時代 の一番元のこの草創期の段階に、縄文社会の基 本的基盤であり、また、私達の家族の根源の大 事なものを築いてきたと言えるのではないか と考えられます。

草創期から早期へのバトンタッチ

草創期を基盤としながら、実は縄文早期へとバ トンタッチしていく訳です。早期の遺跡は、新潟県 ではまだ少ないのですが、私どもが調査した中 里村の干溝(ひみぞ)遺跡で、縄文時代早期初 めの遺跡で住居が半円状に並んできています。 更に、上川村の大谷地原(おおやちはら)遺跡 では縄文時代早期の中頃の、環状を呈する集落 跡が発見されました。更には、関東におきまし ては、この段階で土偶といわれている板状土偶 が出現、発生してまいります。このように、縄 文草創期になかった新しい動きが、更に縄文早 期で加速してくる。いわゆる本当の意味の本格 的な縄文文化の草分けということが言えるか と思います。

(文責 安藤正芳)
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