会報「おいたち」38号   [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]    総目次

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地学講座報告

野外巡検報告
      『柏崎与三遺跡、西山町坪之内遺跡ほか』
案内吉越正勝先生、飯川健勝先生、石坂圭介氏
柏崎市教育委員会 中野純氏、平吹靖氏、
西山町教育委員会 中島義人氏

前日までの続いた雨で足元が心配されまし たが、当日は巡検日和、柏崎平野周辺の山麓沿 いの段丘に点在する発掘調査中の遺跡2箇所 を中心に巡検を行い、38名の参加者がありま した。

柏崎市与三(よそう)遺跡

柏崎平野東部の10〜30mの安田段丘にあり、このあたりの段丘面は開析がす すみ、複雑な谷地形が形成されている。与三遺跡は海岸まで約6kmの距離がある ことなど地形の説明を受け、県内で1,200の遺跡があ るが7割の遺跡がこのような小高い山の上に 見つかっているとのこと。調査中の遺跡は住宅 と住宅の間の狭い崖にあった。まず目に付いた のは平安や鎌倉時代とみられるの井戸跡であ る。次第に急な登りの斜面へと続くが、その途 中に、土器が今掘り出されたばかりの土に貼り ついた状態で出土していた。
与三遺跡 縄文後期、(火焔土器が終わった頃4,500〜 4,300年前)の土器捨 て場、廃棄場跡とのこと。4層からなり、一層 ずつはがして調査している。出土する土器型式 は三十稲場式と南三十稲場式で土器の表面に は竹を縦に半分に割った先でにつついて三日 月型にちょっと盛りあがらせた模様が特徴、土 器の縁にバラの蕾みが半分開いたような装飾 がついた土器も出土。参加者はその土器を実際 手にとって感触を確かめました。そこの沢には 土器だけでなく、灰、石器、骨(小指ほどの)、 当時の土木工事の土も一緒にどんどん捨てら れて沢が埋まるほどであったという。発掘に携 わっておられる中野純さん、平吹靖さんから 「実際、発掘していると、あらためて縄文人の 活動のすごさに驚きます」という言葉にはかえ がたい説得カがありました。さらに斜面を登リ 切ると、鎌倉時代と思われるの墓の遺構があり、 このあたりは縄文から現代まで途切れなく人 が住んでいたことも分かりました。

大宮遺跡と屈振坂遺跡(へっぷりざか)

柏崎市内へと流れる入る鵜川流域のやはり 段丘にある。市街に近いためか現在は両遺跡と も宅地造成で崩され平地、或は団地に変貌して いた。高速道路を挟み北に日本海を背景に大宮 遺跡、南に屁振坂遺跡があるが2つの遺跡の距 離は2kmもない。年代は縄文前期半ばから中 期にかけての6,000〜3,500年前、この同じ地 域の2つの遺跡を調べてみると大宮遺跡では 土器捨て場、土抗(貯蔵の穴など)、中央の広 場をかこみ、竪穴住居もしくは掘立柱建物跡が 「環状型」に並ぶという、この時代以降の典型 的な集落である。一方、届振坂遺跡は小規模な テントのような住居跡である。屁振坂を夏だけ の住居として使い分けていたと思われる(詳し くは石坂さんの講座報告で)。大宮遺跡からは刈 羽式土器といわれる隆起線文類の土器類が12 万個出土、300箱にもなるというから驚き。ヒス イも多数個出土、世界最古のヒスイ加工工場が あったと考えられる。最初は3,4軒、その後 20軒前後の人々が暮したと推測できる。中野 純さん石坂さんの説明を強い日差しを手で遮 りなが縄文の暮しに思いをはせ説明に聞き入 りました。また、柏崎市立博物館見学では中野 純さんより人文展示室の縄文時代の出土品を 中心に案内していただきました。

西山町坪之内遺跡

坪之内遺跡 高速道路西山IC手前、小高い山頂の真に展 望のよい所という印象です。一面風化した赤い 土に覆われて、住居跡と見られる大小の穴がそ れこそボコボコ開いていて、足元要注意でした。 中島義人さんの説明では、竪穴住居跡はおよそ 6軒あり、これが中央の広場(遺構の少ない場 所)を囲んで円形に並んでいるのを見ることが できました。これらは縄文時代中期中ごろの村 跡(4,500年前)で、比較的短期間だけ住んだ 遺跡だろうとのことです(25年〜30年間)。 床は掘って泥で塗り固めてあるとのこと、焼け て赤っぽく変色した石や土から、炉の跡が確認 できました。「大分住居の床が傾いているんだが?」 「炉の石はこの付近には石はないから、寺 泊層から崩れ落ち流れてきたのを拾って使ったんだろう」など参加者から様々な質 問や貴重な意見が交わされました。 最後に資料の準備と案内を頂きました講師の 方々とご参加頂きました会員の皆様にあらた めて御礼を申し上げます。

(文責永井)
坪之内遺跡
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