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地学講座報告

『縄文時代前期から後期への変化』
      〜主に集落の変遷から〜
講師 みくに考古学研究所  石坂 圭介氏

今日は主に縄文時代の村のあり方を中心に、 その移り変わりを見ていきたいと準備してき ました。最初に、問題を2つ皆さんに出して、 これらの答えを探りながらお話ししていきた いと思います。
(1)巡検で見たように、柏崎市では同じ時期、 同じ地域に2種類の村があった(大宮遺跡と 屁振坂遺跡)。この2つの村の同時存在はど のように考えればよいか?
(2)十日町市史によると、十日町市内にある 縄文時代中期(約1,000年間)の遺跡数は約 120箇所であり、他方、弥生〜平安時代(約 1,300年間)の遺跡数は23箇所である。この 格差をどのように考えればよいだろうか?

草創期〜早期

これは、前回佐藤さんがお話 ししたように、一定の地域に一定の集団が「定 着」したということはあっても、まだまだ「村」 のような固定したものはなかった時代と考え られます。津南町卯ノ木南遺跡は、縄文草創期 の遺跡ですが、貯蔵穴と推定される穴が沢山発 見され、当時の人々が一定期間同じ場所に滞在 したことが伺われますが、いかんせんこのよう な発見は稀でまだ分からないことばかりです。 また早期になると、中里村や上川村で「村跡」 も発見されています。そういう遺跡では、多量 の土器や石器のほか住居跡や、調理をしたと思 われる石を集めた施設などが発見され、人々の 日常生活を彷佛とさせます。いよいよ私どもが 住む新潟県にも人々が村を作って暮す時代に なったのです。しかし、それは極めて珍しいも ので、どちらかというと、「村跡」とはいいに くいただの「作業場所」みたいな遺跡がほとん どです。

前期

さて、前期になってもあまり詳しいこ とは分かっておりません。ただ、巡検で訪れた 柏崎の2つの遺跡の調査を通じて考えさせられ ることがあります。
   さっき述べた間題の(1)です。「村跡」の形に どうも2種類あるようです。1つは大宮遺跡と いいまして、これは他の縄文時代の一般的な村 のあり方に近いものです。縄文時代といえば、 竪穴住居があり、その住居が環状に巡るという のが一般的です。大宮遺跡では、住居こそ竪穴 住居ではありませんが、環状に多くの掘立柱住 居が巡る構成などは通常の村跡と同様です。他 方、屁振坂遺跡では、越冬ができないような簡 易的な住居が点々とまばらに見られました。環 状に巡ることもありません。

このようなあり方から、大宮遺跡の方は年間 を通じて人が住む「拠点的集落」、屁振坂遺跡 の方は、夏だけ滞在する「季節的キャンプ地」 と考えられます。同じ時代、同じ地域に作られ た遺跡なのですが、このように「季節」によっ て「村」を使い分けたというのが、有カな説と 考えられます。

それから、大宮遺跡のような大きな集落はや はり珍しく、遺跡から発見される住居跡が全部 で10軒に満たないような小さい遺跡が多い のです。それらを分析すると、一時期には1、 2軒しか世帯が住んでいなかったような状況 です。これは、「初期村」とか「開拓村」とか言 われているのですが、他の遺跡、地域から新し く移り住もうとした人々の残した村跡である ように見うけられます。それが、大きな村(遺 跡)に発展しなかったということは、その開拓 の試みはなかなか成功しなかったんではない かな、と推測出来ます。

中期

中期も最初の頃は、同様の状況が続き ます。津南町城林遺跡などがその例です。遺跡 数は増えますが、村跡として大きいものは出来 ない。それが、中期の中ごろになると状況が一 変します。まず村跡の数がすごく増加します。 信濃川流域では、その支流ごとに1つの大きい 村が残されるようになり ます。そして問題の(2)で 見たような十日町市内だ けで120箇所もの遺跡が あるということになって しまうのです。

また、作られた村のな かには、非常に長い期間 (500年くらい?)人が住 んでいた集落、「長期集 落」が出現します。皆さん がよくご存知の長岡市馬 高遺跡、十日町市笹山遺 跡、津南町沖の原遺跡な どがみなこの例になりま す。

もちろん、例外もあり ます。以前会報に書きました塩沢町五丁歩遺跡 ですとか、巡検で訪れた西山町坪の内遺跡も 「短期的な村跡(せいぜい50年)」です。また、 この時代には前期で見られたような「季節的な キャンプ地」のような村もあったと思われます。 さらに、講演のときの加藤さんが質間されたよ うに、「狩猟や採集に頼った生活をしていると、 村の周辺の資源が枯渇し1つの村にそんなに長 期間住めなかったのではないか?」という問題 もあります。まったくそのとおりで、私が「長 期集落」と呼んでいるものは、「居住」→「非 居住」→居住」を繰り返した姿の可能性の方 が高いと考えています。

つまり、「短期集落」のなかで条件が整い繰 り返し人々が住んだものが「長期集落」である と考えられるのではないでしょうか。

こうしてみると、(2)の問題が解けるのではな いでしょうか。中期の遺跡の数が多い理由は、 1つには季節的な移動があった、さらに、本格 的な村も数十年単位で移動した、そうすると、 残される遺跡の数は倍以上になるわけです。こ のように考えてくると、「村」が作られるよう になったといっても、現在の村のあり方とはず いぶん違っていたことがお分かりいただける のではないでしょうか。

さて、当日は、中期終末の大変動についてや 後期への変化についても触れたのですが、頁の 都合で以下は省略させていただくことにした いと思います。現在、おいたちに連載中の「シ リーズ火焔型土器と新潟県の遺跡」でも書いて まいりますので、是非そちらも参考にして下さ い。

(文責石坂圭介)
五丁歩遺跡
第2図 五丁歩遺跡の遺構全体図
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