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地学講座報告

『縄文時代晩期の集落と生業』
      〜青田遺跡の調査から見えてきた社会の様子〜
講師 (財)新潟県埋蔵文化財調査事業団  荒川 隆史氏

縄文晩期とは縄文1万年間の最後の2,000年位 です。その最も代表的なものが青森の亀ヶ岡遺 跡ですが、その勢力範囲は東北から中部、北陸、 北海道南部迄の広い範囲に広がり、西日本にも 影響が見られます。これ程の広い影響圏をもっ た時代は縄文時代でも晩期しかなく、これを縄 文時代の文化が最も栄えた時代ととらえるこ ともできますし、崩壊へ向っての序章と考える こともできると思います。

さて、その晩期の杜会の様子を見る前に、青 森の三内丸山遺跡で詳しく 研究された栗について見て みましょう。縄文時代の竪 穴住居は萱葺き屋根の建物 のイメージがありますが、 三内丸山遺跡(前期から中 期)では栗の木を使った建物 の柱が大量に見つかってい ます。ここでは500人もの 人達が住み100軒もの家が 建っていました。大量の栗 の木が見つかっており、栗 は食料でもあると共に木材 は柱として使われていまし た。実際、縄文時代の柱の9割以上は栗の木で す。その栗の実のDNA分析から、その栗は同 じ栽培種であることが分かりました。

青田遺跡で発掘調査から

新潟県内の縄文時代晩期の遺跡としては加 治川村で平成11年度〜13年度に発掘された青 田遺跡があります。標高わずか1.5mのところ から約2,500年前の遺跡が見つかりました。集 落遺跡から掘立柱建物の柱の根元部分が410本 も出土しましたが、やはり、大多数は栗の木で す。柱に使用した栗の木の年輸測定の研究から 成長率を比較してみると、青田遺跡の栗は三内 丸山遺跡よりも、さらに現在よりも5倍位は成 長が早いことが分かっています。この事から栗 が栽培され手入れされていたことが分かりま す。

この青田遺跡は砂丘のへりと櫛形山脈の間 に存在し、当時は起伏のある森でした。その後、 この遺跡は平安時代より新しい時代の大地震 による地面の陥没により紫雲寺潟の底に沈み ました。現在は水田であり、そこの南北270m の間を調査しました。

青田遺跡は川に沿う形で川の両岸に建物が 並ぶ全国的にも珍しい集落の形ですが100年位 しか住んでいなかったようです。青田遺跡の掘 立柱建物は、これは川を利用するためだったと 考えられます。この建物の桂は直径52cm程の 栗の丸太を6本組み合わせていますが、地面に は丸太を何本も下に置いて土台としてその上 に柱を設置しています。ずっと縄文時代を通し て低い土地に住むための土木技術を持ってい たであろうと考えられます。また、ここからは 丸木船と長さ128cmの大型の擢が県内では初 めて見つかりました。丸木船は幅が80cm長さ は5.4mで底が平らになっていて沢山の荷物を 運んで海に出る事も可能であったと考えられ ます。建物跡からは日本最古の草壁材が見つか っています。他には埋め嚢という土器を逆さま に地中に埋め込んだ幼児の墓と考えられるも のや漆製品が多数見つかっています。川の岸辺 からは栗の皮などが大量に出土しました。これ らから青田遺跡は低湿地に暮した縄文人の生 活ぶりを詳しく伝えた貴重な遺跡といえます。

(文責 野水淳一)
青田遺跡掘立柱建物の復元案
青田遺跡掘立柱建物の復元案
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